「クサい」の音楽学
2008.02.14 6:21
「この曲・・・クサい!」と感じた経験、誰でも一度くらいありますよね。
もちろん嗅覚的にクサいんじゃなくて、聴覚的な話です。なんかこう、顔が自然とニヤけてきちゃったりして、キタキタキタ!とヒートアップしてしまうような。僕みたいなゲームオタクに言わせると、サガシリーズの戦闘音楽(伊藤賢治氏作曲。俗にイトケンバトルなんて呼ばれて愛されている。)なんかはその典型的なもので、一信者として日々拝聴しております。つまり好きってことです。そうですね、愛してますね。クサいから大好きなんです。
ではここでちょっと考えてみましょう。僕がイトケン好きなのは、クサいからです。彼が新世代の音楽シーンを担う大作曲家であると認めているからではありません。じゃあ何故イトケンをクサいと感じるのか?クサさの正体は何なのか?そもそもクサいって何なんだ?語源は?
僕個人だけがイトケンに対してクサいと記号を付与しているのであれば何も不思議ではないですが、不思議なのはこのクサいという感覚が広く共有されているということです(共有域がどの程度の規模であるかは、世代別・地域別に調査してみないと何とも言えないところはあるが)。きっと共有している人々も、まずその正体を的確に言語化はできないでしょう。つまり、「クサい」は現代人の音楽感性の中でそれ以上分解できない最小単位として存在しているってことです。かといってその「クサい」という言葉自体もなんだか意味合いが怪しい。怪しいまま、説明不可能な感覚のまま共有されている。でも確かに僕たちは「クサい」と感じる。それを置き換える言葉も持たない。不思議ではないですか?
と問題提起をしたところで、それを音楽学的に考える道筋を立ててみましょう。考察の対象となるクサい音楽は明らかに西洋音楽の流れの中にあるものであり、必然的に構造も西洋音楽のそれと同じになるので、音楽を成り立たせている要素の分解も、西洋音楽を分析する時と同じように行ってもよいでしょう。それはリズム・旋律・和声(コード進行)の三要素。・・・この中に「クサい」の正体がいるのか?まぁそうは思っていないから、こんなことを書こうと思ったのだけども。
長くなりそうなので、連載にします。気が向いたら次回。